ネパールブインチャロ2015現地視察報告
(ブインチャロはネパール語で地震です)


1. 地震発生と被害
2. 半年後の問題点
3. トレッキングエリアの現状
4. 外国人旅行者の動向
5. トレッキング中に見た地震被害
6. カトマンドゥと近郊の被災地
7. 友人たちの地震体験
8. 支援のあり方
9. まとめ

1. 地震発生と被害
第1回大地震(2015/04/25) 震源地 ゴルカ M8.4
第2回大地震(2015/05/12) 震源地シンドバルチョウク M7.9
死者・行方不明者 8,600人(10,000人以上とも云われている) 
 見舞金40,000Rs(約46,000円)が支払われた
けが人 17,000人(21,000人以上とも云われている)
全壊家屋 65万軒 見舞金15,000Rs(約17,000円)が支払われた
半壊家屋 27万軒
村落全崩壊 ランタン、コダリ、バイサリなど
復興に必要な経費 50億ドル(6,000億円) ネパール政府試算

2. 半年後の問題点
新憲法制定によりインドの国境封鎖が行われ、そのためガソリン、灯油、医薬品をはじめ生活用品、食料品など輸入が出来ずにいる
航空便(国際線、国内線)減便
バス、車、チャーターの車 ガソリン不足で動かなかったり、運賃は2〜3倍に値上がりしている
食堂、ロッジは閉店を余儀なくされたり、メニューをへらして営業している 薪で調理をしたり電気調理器が売れているという
 今後の見通し ネパールは今までインドに依存をしており(輸入の90%はインドから)国境封鎖は両国にとっても不利益になることから解決の道があるのではないかとみられている



3. トレッキングエリアの現状
クーンブ  エベレスト街道はエベレストBCで雪崩が発生し、ナムチェ、クムジュン、ターメ、パクディンなど建物にも大きな被害があったと日本でも報道されたが短期間で再建されトレッキングルートの整備もすばやくおこなわれています。
ゴーキョ方面はロッジ、キャンピングともスムーズのようです。クラシックルート(ジリ〜ルクラ)はトレッキングには問題がないようですが、一般住宅の古いレンガ造りの住宅には全壊、半壊があるようです。ファミリーアルパインのポーターにも被害にあった家があります。
アンナプルナ  ABC、ゴラパニ、ルートはロッジ泊のトレッキングが従来通り行われています。ラウンドコースはマナンからトロンパス越えはよさそうですが、ジョムソンからタトパニ、ベニに下る自動車道は崖崩れの跡が何か所も見られ怖い感じがある。
ランタン  ランタン村が全村山崩れで埋まり復旧の見込みはない。支援の意味を込めてキャンピングで入山しているグループもあるようだが詳細は判らない。ランタン村の人たちはカトマンドゥに避難している。
マナスル  震源地近くだがもともとトレッカーが少なくロッジ、住宅も少ないところなので復旧は早いとおもわれる。
マカルー、カンチェンジュンガ  ネパール東部で震源地から遠いので影響はない。

 いずれもアプローチの飛行機、バス、チャーターの車がガソリン不足、減便、運賃の高騰で確保できるかが問題です。

4. 外国人旅行者の動向
 地震発生後、世界中からサポートの人々や報道関係者の来訪があったが、その後雨季に入り例年通り観光客の訪れもなくなった。秋、乾季を迎えるとともにトレッキング適期になるが、今年はいずれの国々からも半減しているように見える。統計の数字ではないが観光事業従事者の印象である。
 相変わらずイギリス、フランス、ドイツのからのトレッカーが多く、続いてアメリカ、日本は近年少なかったようだが今年はサポートの関係者が多いように感じる。ここ数年中国からの買い物ツアーの団体客がタメルの商店街を占拠していたが今年はほとんど見かけない。韓国からの旅行者も少ない。

5. トレッキング中に見た地震被害
(ムクチナート〜ダウラギリアイスホール〜ベニ)
 ジョムソン飛行場に無事着陸、朝日に輝くニルギリを見ながらいつものトレッキングのように歩き出し、吊り橋を渡り旧村に入る。右側の斜面から瓦礫となったレンガの山が道路脇まで覆っている。古い家屋が重なり合ってくずれている。道路は綺麗に片づけられている。
 マルファには河口慧海の記念館が当時まま残っているが大きな亀裂が入っていて今後維持できるのか心配になる。是非復旧してもらいたい。
 ダウラギリアイスホールの起点になる村ラルジュンはトレッカーの減少の影響ですべてのロッジが営業していない。カロパニまで下って翌日ショコンレイクまでテントを担ついで上がることになった。トレッカーには全く逢わない。
 タトパニ、ベニへはチャーターの車を使うが崖崩れ、道路の崩壊で怖い道だ。数日前に車が落ち7名が死亡した現場には落ちた車体がそのまま横わたっている。
 ベニ直前のバイサリは28軒あった家全てが崩壊した岩の下で見る影もない。近くで太い竹で組んだ骨組みにブルーシートを張って共同生活をしている。
 ローカルバスは車の屋根にも人を乗せて走っている。定員の2倍、3倍だ。この日バクルンではバスが倒れ何人もの人が死んだという噂が流れた。

6. カトマンドゥと近郊の被災地
タメル  朝10時半を過ぎても開いている店は半分、夜は7時半になると片づけがはじまる。人と人が肩を触れ合うこともない。以前使っていたホテル・ヌルブリンカの隣のビルが全壊して昔ながらの水場に流れ込んで水場が瓦礫で埋まってしまった。水場の水量が少なくなり汚れた水が溜まっている。それでも近所の人は水を汲み洗濯をしている。ヌルブリンカは道がふさがれて休業している。商店街は一見なにごともなかったように見えるが中に入ると壁には亀裂があり補修した跡がみえる。
ダルバール広場  シブァ寺院、ナラヤン寺院、カスタマン寺院の大きな建物が3棟すっかり土台からくずれた。レンガはすっかり片づけられて通行には問題はない。旧王宮の建物はあちこちに大きな亀裂が入り今にも倒れそうだ。内部への立ち入りは禁止。外回りにはパイプや木材で補強がされているが近づかないほうがいい。 入場料金は復旧のための援助を含めて通常より250Rs高く1000Rsになっている。
ラジンバットの道  日本大使館へ向かう道だが、途中シティホテル(8階)とその向かいのビル(11階、2棟)が無人になっている。ガイドのレンジの話ではネパールには高いビルを解体する技術も機械もない。当分手が付けられないのではないかという。
スワナンブナート  カトマンドゥを一望する丘の上に立つストーパはその白い部分が破損し補修されている。周りの建物も損傷が多い。ユネスコの文化遺産のため現状の外観をそのままに内部を鉄筋コンクリート造りにして再建される。カトマンドゥの文化遺産は7つで、ダルバール広場、スワナンブナート、パシュパテナート、ボダナート、パタン、バクタブル、チャングナラヤンである。
ボダナート  ストーパの塔頂部分が落ちた。すでに修復工事が始められている。周りの商店街は以前から鉄筋コンクリートの補強工事がされており安全が保たれている。
パタン  ダルバール広場のジャガナラヤン寺院、ヘリシャンカール寺院が跡かたもない。広場は掃除されている。ミュージアムは変わりなく落ち着いた照明に飾られた仏たちが静寂の世界の中にいる。館内のレストランも営業しており別世界だ。街の中は支えの木材が多いが全壊家屋はあまり見当たらなかった。
バクタブル  LPラクパを同行して彼が地震直後、テント、寝具、食事の提供をした住宅地から直後の状況と現在について説明を受けながら見てまわった。4階建て前後の建物が折り重なって崩れている。車が通る道だけレンガがどけられているが、一歩裏に入るとどこが家でどこが道かもわからない。かろうじて1階部分が残った家はトタンをかぶせてそこで生活している。レンガのアーチを潜り中庭だったのであろうか住民に話を聞いた。親を亡くした子供が夜だけ眠りに帰ってくるという場所は自分の家があったところだったのだろうか机の下くらいのレンガの空間だった。そしてそことそことあそこで3人死んだと足元を指さされ一瞬飛びのいたが、地震で亡くなった方が逢いに来てくれたのかと何か伝えたいことがあったのではないかと手をあわせた。合掌。文化遺産の破損は確かに残念だがいずれ形だけでも修復されるだろう。しかし人の命と暮らしはどう伝えていけばよいのだろうか。崩れ残ったわずかな空間に一夜一夜の安らぎを求めて横になる人々、地震の話をし写真に応じてくれるネパールの人の笑顔を忘れることはないだろう。
バラジュー  カトマンドゥから北西4Km、工業地帯の北に広がる街、山の斜面に張り付くようにある。商店街はところどころ歯の抜けたように崩れた店がある。学校もひびが入り今にも倒れそうだ。商店は再建が進んでいるようにも見える。

ゴルドゥンガ  バラジューから山道をしばらく行くとナガルジュンのトレッキングルート入口がある。レッドパンダやトラが生息するという。この道の北側斜面が大きく動いたのかバクマティ川にかけて建物が全体に傾いてしまっている。(LPは建物が空を向いていると表現した)仮設の住宅の銀色のトタン屋根が光っていた。

7. 友人たちの地震体験
LPラクパ・シェルパ  建設中の自宅の2階スラブで激しい揺れを感じた。地震の予見があったのか、春に見に行ったときに太い鉄筋、厚いコンクリートなど気を使っていると話をしていた。高いところから見る光景は驚きだった。日本大使館の大きな木が大きく揺れ、枝は地面に着くほどだった。その後支援活動で寝る時間もなく食事も一回で被災地各地を駆け回っていた。今思うと夢の中の出来事のようだった。
ラクパ・ヌルブ・シェルパ  お客様とラウンドマナスルの帰り道チェムチェあたりをジープで走っていた。悪路を行くジープは地震の揺れを超えていたのか体に感じなかった。崖崩れで道がふさがれ車が止まった時初めて地震に気が付いた。再び車が走り出した直後背後で崖が崩れた。
レンジ・シェルパ  中国側エベレストでルート工作のため6600mのキャンプにいた。地震を感じテントから出ると下のクレパスが広がっていくのを見て恐怖を感じた。
チェリン  カトマンドゥにいた。新しい家は大きな被害はなかった。
ポーター達  キャンピングで行くポーター達の実家はルクラの南の村々やランタン付近の人が多い。家が全壊したポーターも何名かいる。この秋仕事に出ているポーターもいる。
ラジェンドラ(ルートネパール)  店、家、家族の被害はない。ダルバール広場付近にある実家は壊れ両親を引取っている。親戚に九死に一生を経験した方がいる。
フジホテルオーナー  日本生活が何年かあったのでRC構造のホテル内では慌てることはなかった。日本人のお客は平気でいたが、外国人はロビーで寝たようだ。
タパ(タンカ店)  店は損傷なし。実家がコダリなので村はほぼ全壊。両親はカトマンドゥにいる。
グルン(ショール店)  娘たちと遅い食事中店の2階にいた。大きく揺れて怖かった。2か月ほど店はあけられなかった。

8. 支援のあり方
 地震直後、皆様方から暖かいお気持ちを頂き義援金1,000,000円を従来からお世話になっているファミリーアルパインに送金することができました。幸いメンバーの中に死者、けが人もなく家屋倒壊も数件でした。その後雨季に入り仕事はなく秋のトレッキングシーズンを迎えても余震の心配やトレッキングルート、ロッジ、交通機関の心配でお客様は半減しています。このため地震直後に届けられた義援金は大きな助けになったと思います。
 さて、今回現地に赴きいろいろな角度から視察をし、半年を経過した今支援について考えさせられました。政府はあまりに大きな被害に手が付けられずにいます。
LPラクパとファミリーアルパインの支援活動を紹介します。
彼は地震直後イギリス、アメリカの友人たちとヘリを飛ばし上空から被災地を視察し救助が必要な場所を選びテント設営、ブランケット、食事の提供などを始めた。現場にはファミリーアルパインのメンバーが張り付いて仕事をした。ガイド・ポーターは野外活動のプロですから手際よく行われたと思います。そして他のボランティア団体やアーミーの活動ともジョイントした。この活動は評価されFreeNepal Kichin 2015としてTVで放映されています。
活動地域は次の通りです。
カトマンドゥ  バクタブル、ナガルコット、バラジュー、ダクシンカリー、カカニ、エアポート、スワヤンブナート、ゴルドンガ、トウカ
カトマンドゥ以外  ジリ、シンガティ、チャリコット、ヌワコット、シンドパルツォ、コダリ、ダーデン、ランタン、ドウンチェ、ティプリン、ダァテ

現在は地震で両親を亡くした子供たちに学費、生活費の支援をするためのプロジェクトをはじめました。これは国際的な活動になる見込みで今申請書の作成など準備が始められている。

9. まとめ
現時点でファミリーアルパインのメンバーの金銭的支援は終了し、より深刻な被害を受けた人々を支援したい。半年が経過した今極力自立を促し、金銭の配布はしない。将来に残る援助に変えていきたい。LPラクパの考えを尊重し今後の支援、使い道について考えたいと思います。ご支援本当にありがとうございました。

義援金  1,121,030円(4/26~5/20)
送金  ファミリーアルパインさま  1,000,000円(5/15 ・ 送金手数料8,000円)
山根 正子さま        100,000円(5/22 ・送金手数料8,000円)
義援金  1,005,270円(5/21~11/4)
現地にて  ファミリーアルパイン  1,000,000円(11/05)
義援金総額  2,126,300円  残金  10,300円